国史教科書(第7版)を読みました。今年、文部科学省から中学校社会科用教科書として正式に認められたもので、6回目の申請でようやく採用されたという経緯があるそうです。興味を引かれて、早速合格本を手に入れ、全文を通して読みました。
この教科書の発行人である竹田恒泰さんは、かつての皇族にあたる方で、代崇光天皇の男系子孫であり、明治天皇の玄孫にあたります。
以前、不合格となった版も読んだことがありましたが、今回の版ではかなりの修正が加えられていました。例えば、古代史の章では「日本文明」という表現が削除され、より事実に忠実な内容に変更されています。中学生向けということもあり、平易な文章で歴史の流れをつかみやすくなっており、文部科学省が許可した内容であることから、国が認める歴史認識を理解できるという点で、安心して読むことができました。
一般的に教科書は無味乾燥な印象を持つものですが、竹田氏の文章には彼自身の思想や意見が感じられ、読み物としても楽しめる内容でした。信長が神宮遷宮に寄進したエピソードや、光格天皇石原莞爾南樺太、真岡事件など、私自身が知らなかった事実も多く含まれており、大変興味深く読み進めることができました。特に天皇に関する記述が詳しく書かれており、その点でも非常に興味を惹かれました。備忘録します。

平成29年にオーストラリアのマジェントベベ遺跡から約65,000年前の磨製石器が発見されたと報告がありました。ところがマジェントベベ遺跡の年代信憑性には疑問もされています。そのため、国際的に信頼される手法により年代が特定された磨製石器としては、日本から出土したものが世界最古であるといえます。ページ24
中国湖南省の約18000年前と言う土器は、日本の考古学者が調査を要請しても拒否され、しかも盗まれてもうないといいます。またこの測定も土器自体を調べたのではなく、土器の上下の地層の動物骨などから割り出したもので、約3000年間の開きがあり、上限が18,000年前ということでしかありません。ページ31
…日本列島と朝鮮半島の在来の温帯ジャポニカ250種のSS R高田の分析から、…少なくとも日本列島の稲に関しては朝鮮半島を経由直接日本列島に伝えられたとも見られます。ページ41
このように縄文人が必要な外来文化を選んで取り入れ、独自の文化を構築していったことがわかります。その他の研究成果からも、日本列島各地に住んでいた縄文人が、少数の渡来人がもたらした文化的影響のもとで農耕社会へ移行していったと考えられています。ページ42
邪馬台国大和国家の勢力が拡大するどこかの時点で統合された一地方政権か、あるいは邪馬台国大和国家であったかのいずれかということになります。ページ56
日本が独自の元号を定めたということも、中国王朝の冊封から独立した日本の意志でした。現在、元号を使用している国は、世界で日本だけです。ページ80
武士たちは御家人、被御家人を問わず国難に対して果敢に戦いました。朝廷と幕府も力を合わせてよくこれにあたり、元の日本制服を阻止しました。これが弘安の役です。文永の役と合わせて元寇と呼びます。神風と呼ばれる暴風が元軍に壊滅的打撃を与えたこともあり、我が国は神の加護する国だという神国思想も芽生え、日本が一体であるという自覚も高まりました。ページ136
伊勢の神宮においては式年遷宮が120年間中断している。正親町天皇の代に再興したいと、…信長に願いてた。信長が「どのくらいの費用でできるのか」と尋ねたところ、「1000貫あれば、その他は勧進で賄うことができます」と申し上げた。すると信長は「一昨年清水社を修繕した際は300貫かかるとの事だったが、1000貫以上要した。ならば神宮の遷宮は、なかなか1000貫ではできないだろう。民・百姓に負担をさせてはいけない」と言い、まず3000貫を寄進することにし、その後必要に応じて寄進することになった。3000貫を現在の貨幣価値に換算すると4億円程度に相当。ページ195
正親町天皇が信長と秀吉を、また後陽成天皇が秀吉を信任して、その後天下人に導き、応仁の乱以降の動乱の時代は幕を閉じました。ページ198
また幕府は中院通村を罷免して江戸の寛永寺に半年間幽閉して見せしめとし、これを機に、朝廷の統制をさらに強化しました。幕府は摂家に、天皇上皇が勝手に振る舞わないように、また法度を守るように摂家が責任を持たなければならず、それができなければ摂家の落ち度であると伝えました。このように朝廷を統制する仕組みや幕末まで機能することになります。ページ222
第118代後桃園天皇は、安永8年(1775年)に満21歳にして」突然崩御となりました。…朝廷は先例を調べ、傍系から即位した継体天皇後花園天皇の例に従うことにしました。…こうして第119代光格天皇が誕生しました。…光格天皇は歴代天皇の中でも、特に理想的な天皇像と君主意識を持ち合わせた天皇でした。それは傍系から即位したことが強く影響していると思われます。その劣等意識こそが、理想的な天皇像を求める光格天皇の気概を形成したと考えれてます。ページ243
日本は欧米諸国の強い圧力により開国することになりましたが、以降、明治維新によって日本は、欧米の思想や文化を積極的に取り入れ、産業の近代化を促進し、近代国家の基礎を整えていきます。ページ260
岩倉具視を全権大使とする総勢100名を超える規模の岩倉使節団を欧米に派遣しました。木戸孝允大久保利通伊藤博文などが副使として参加し、西郷隆盛が留守政府を預かり諸改革に当たりました。しかし、当時のわが国には憲法などの法整備の不足や、明治天皇の委任状を持参し忘れていたことなどから、条約改正の交渉は受け入れられず、主に欧米諸国の進んだ技術や社会の視察に専念しておよそ2年もの時間を費やしました。ページ294
日本側の代表は榎本武明が行い、粘り強い交渉でわが国の主張を認めさせ、明治8年樺太千島交換条約を締結して、ロシアが樺太全土を領有し、日本が千島列島全域を領有するという内容で領土交渉が決着しました。ページ300
シオドアルーズベルト大統領「今回の大勝利は、貴兄もご満足のことと存じます。トラファルガー海戦の勝利やスペインの無敵艦隊の撃滅もこれには遠く及ばないものと思います。日本万歳」1905年5月30日ページ327
明治天皇の時代は、優秀な政治家たちが命をかけて政治に没頭した時代です。明治天皇は能力のある政治家たちを的確に信認激励なさり、その意向は彼らに勇気と力を与えました。明治天皇なくして我が国の近代化はなかったといえます。ページ336
満州事変が起きたときに、満州地域には200,000人以上の国民革命軍が展開していたので、関東軍はおよそ10,000で戦力差は歴然としていました。それでも石原莞璽は賞賛があり作戦を実行しました。そして短期間のうちに満州を占領します。石原が戦争の天才といわれるゆえんです。ページ352
しかし、関東軍が政府の方針を無視して行動し、その結果を政府が追認した事は、禍根を残しました。軍の部隊が勝手に行動しても「結果が良ければ許される」という悪しき先例になってしまったからです。日中戦争が収集不能なまま戦争が拡大し、泥沼の全面戦争突入してしまった原因は、満州事変にあったといえます。ページ355
ユダヤ難民を救った2人の日本人 昭和13年ソ連満州国の国境にあるトポール駅にナチスの迫害から逃れようとするアメリカの上海総会を目指すユダヤ人が現れるようになりました。この脱出経路はユダヤ人の間で樋口ルートと呼ばれ、多くの難民がトポール駅に押し寄せました。樋口貴一郎のこの行動は外交上問題となりました。
ユダヤな民を救ったもう1人の日本人がいました。昭和15年7月から8月にかけて外務省からの命令に造反して大量のビザを発給し、ユダヤ難民を救った外交官の杉原千畝です。杉原は悩んだあげく、人道上どうしても拒否できないという理由で自らが処分されるのを覚悟の上、受給条件を満たしていないものに対しての手書きのビザを書き続けました。ページ369
日本が資源を求めて南方に進出するのを南進論と呼びます。南方の権益を確保しようという武力南進を発案したのは、陸軍省軍局長になっていた武藤彰でした。武藤は日中戦争を拡大する方針を立てた人物です。南進に反対していた石原莞璽は、既に東條英樹と対立して失脚していたため、陸軍内には南信論を止めるものはいなくなっていました。ページ370
そして3月10日2名、焼夷弾を満載した300機以上のB29爆撃が東京の空を埋め尽くし、無差別爆撃を実行しました。東京大空襲です。この1回の空襲だけで、東京の約4割が焼かれ、約270,000の家が消失し、女性や子供を含む罪のない民間人約100,000人が殺されました。空襲としては、人類史上最大規模を虐殺になります。東京への空爆は100回を超えました。ページ387
真岡郵便電信局事件。 8月15日には大米戦争は終結しましたが8月9日に参戦したソ連の攻撃を続きました。ソ連は北海道占領することを目指していたのです。当時南樺太には400,000人以上の日本の民間人がいました。第二の都市である真岡へのソ連軍の上陸作戦が始まったのは8月20日早朝でした。当時電話交換業務を担っていたのは真岡郵便電信局に勤める若い女性職員たちでした。平屋の本館と2階建ての別館があり、電話交換業務は別館の2階で行われていました。ソ連軍の攻撃が激しくなり真岡郵便局も被弾するようになると12名が孤立することになりました。そしてついに最後を悟った交換師たちは自ら命を立ったのです。受話器越しに激しい方の中から聞こえた「もうどうにもなりません。皆さんさようなら、さようなら」という言葉を最後に連絡が途絶えました。ページ397
先の大戦により全てを失った日本でしたが終戦からわずか23年間で…世界第2位の経済大国に躍進しました。明治の奇跡の成長を再び成し遂げたのです。近代期に経済弱小国が経済大国に成長して列強に加わった国は日本だけでしたが、大戦終結時に経済弱小国だった国の中で経済大国に成長した列強に加わった国も日本だけです。この偉業をなすには多くの人々の努力がありました。戦後の日本の復興はどのように果たされたのか記憶に留めておいてください。…この教科書で扱ったすべての時代は諸君の先祖たちが生き抜いてきた時代なのです。歴史には流れがあり、歴史は今そして未来とつながっています。今そして未来の日本や世界を知るために、私たちは歴史を勉強するのです。私たちは1800年以上の経験と英知の蓄積を歴史という形で学ぶことができます。諸君のような若い世代がこの日本国史を最大限に生かす時、日本の未来が拓けるのです。ページ454

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