先月、2026年6月20日、美輪明宏さんが91歳で亡くなられました。

歌手、俳優、演出家として、長い間、独自の世界を築き続けた方でした。心よりご冥福をお祈りいたします。

美輪さんの訃報に接し、以前読んだ自伝『紫の履歴書』のことを思い出しました。

長崎で原爆を経験し、上京後は音楽学校を中退。生活のために水商売や進駐軍キャンプで歌いながら、歌手、俳優として道を切り開いていく――。

華やかな姿からは想像できない、苦労と葛藤に満ちた前半生が率直に描かれています。

特に印象に残ったのは、美輪さんが若い頃に経験した男同士の愛です。

純粋であると同時に、息が詰まるような激しさがあり、愛することの美しさと怖さの両方を感じました。

代表曲「ヨイトマケの唄」が、銀座で出会ったサハリン帰りの苦学生の話と、幼い頃に見た同級生とその母親の姿から生まれたことも、この本で知りました。

母親が子どものために懸命に働く姿を歌ったこの曲を聴くと、私も苦労して生き、亡くなった母を思い出します。

今から10年ほど前、函館の「FMいるか」に出演しました。

番組の中で「思い出の曲をリクエストしてください」と言われ、美輪明宏さんの「ヨイトマケの唄」をお願いしました。

ラジオから流れる美輪さんの力強い歌声を聴きながら、亡き母のことを思い出していました。泣けました…

美輪さんから大きな影響を受けたのは、歌だけではありません。

テレビ番組『オーラの泉』で見せた、スピリチュアルな視点からの率直な回答にも、何度も驚かされ、感動しました。

目に見えるものだけで人を判断せず、その奥にある心を見る。

美輪さんの言葉には、長い人生の苦労を乗り越えてきた人だからこその、厳しさと優しさがあったように思います。

一度は、美輪さんの舞台を生で見ておきたかった。

特に、江戸川乱歩原作、三島由紀夫脚本の『黒蜥蜴』を見られなかったことが残念でなりません。

歌手、俳優、演出家という枠を超え、自分自身を一つの芸術作品として生き抜いた美輪明宏さん。

『紫の履歴書』は、単なる芸能人の自伝ではありません。

戦争、貧困、差別、愛、裏切り、そして表現すること――。

激動の時代を生きた一人の人間が、どのように苦難を乗り越え、自分の道を切り開いていったのかを伝える、重みのある一冊です。

函館のラジオで流していただいた「ヨイトマケの唄」を、静かに聴きたいと思います。

wikiから情報を備忘します。

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【美輪明宏情報】
美輪 明宏(みわ あきひろ、1935年〈昭和10年〉5月15日- 2026年〈令和8年〉6月20日)は、日本の歌手。個人事務所「オフィスミワ」所属。俳優、演出家、タレント、声優、コメンテーター、ナレーターとしても活動していた。本名および1971年までの芸名は丸山 明宏(まるやま あきひろ)。愛称はマルさん。長崎県長崎市出身。身長160cm。

生涯
生い立ち
1935年(昭和10年)5月15日、長崎県長崎市本石灰町で父・寺田作一と母・ムメとの間に、5人兄弟の次男として誕生する。きょうだいには兄と姉と弟がいる。出生名は寺田臣吾だった。4歳の頃、母の実家の跡継ぎとしてきょうだいの中から一人、臣吾が丸山家に養子に出され「丸山臣吾」へと改姓[7][8]、継母の丸山ミツに迎えられた。

美輪の実家は、長崎市内の「丸山遊廓」と呼称された遊廓の近くで、「世界」という名前のカフェーや料亭を経営して成功を収めており、比較的お金に困らない豊かな環境で育った。当時の長崎は軍国主義前で、モダニズムが世の中を支配していた時代であった。400年の歴史のある長崎は、オランダ、ポルトガル、スペイン、イギリスをはじめ、中国・朝鮮人など多様な人種が住んでおり人種差別など皆無であった。

実家は、料亭やカフェーのほか風呂屋も経営していた。家庭風呂などない時代であり、良家の者も風呂屋に通っていた。立派な身なりの人がコートからだんだん脱いでいって、さぞかし立派な裸だろうと想像していたら、気の毒なほど貧相な体であったり、逆に労働者が臭うような野良着を着て堂々と入ってきたが、ところが裸になるとマイヨールの彫刻のような素晴らしい体をしていた。それを見た丸山は、「着るものなど嘘っぱちじゃないの!この裸のままが本当の人間なんだ」と感じ、それ以降、人を見るときに容姿、容貌、年齢、性別、身分、国籍、学歴、着ているもの、持っているものなど目に見えるものは見なさんな、見えないものを見る、それは心だ!そういう意識が幼心に芽生えた。

カフェーではありとあらゆる人が身分を隠して来ていたが、そこには神父もいれば教師や政治家もいて、はじめは紳士然としていても酔うほどに正体を現して、ホステスのスカートの下や着物の裾から手を入れたり頭を突っ込んだりして引っぱたかれ、頭から酒をかけられてニヤニヤしていたが「この人たちの昼間の顔は何なの?[7]これが本当の姿なんだ」と、ものを見る目がそういった光景に慣れた結果、心が揺るがなくなった。

1941年12月、イギリスやアメリカ合衆国との戦争体制に入った中で父親は「敵性文化を商売にする事は時局にそぐわぬ」と言われて、やむなくカフェーを閉店せざるを得なくなり、金融業に転業する。

原爆により貧乏暮らしに
1945年(昭和20年)8月9日、長崎県長崎市本石灰町にある自宅で、当時10歳の丸山は窓際で夏休みの宿題に御伽草子の「万寿姫」の絵を描いていた。絵の仕上がりを確認するため、二、三歩後方に下がった時、何千ものマグネシウムを焚いたような白い光を見た。その直後に、激しい爆発音が聞こえ、家がぐらぐら揺れて傾いた。それは原子爆弾によるものであり、自宅は原爆投下地点から直線距離7~8キロの場所であった(長崎市への原子爆弾投下)。

その後、女中に促されて二人で布団をかぶると、すぐさま空襲警報が鳴りだし、その後、爆風で机の下に飛ばされていた兄を起こして、3人で防空壕に向かった。6日後の終戦の日に爆心地近くにあった生母の実家へ祖父母を一人で探しに行き、惨状を目の当たりにする。

原爆により、父の貸付先が相次いで破産・死去したため、返済を受けられなくなった丸山一家は貧乏生活を余儀なくされた。その前に美輪の父の後妻が死去しており、父の後々妻も失踪するなどの不幸に見舞われ、10歳代の美輪は幼い異母弟たちとつらい日々を送ることとなった。

上京して国立音高へ

日本劇場で「メケ・メケ」を歌う美輪
終戦後、自身が鑑賞した映画に出演していた加賀美一郎のボーイソプラノに衝撃を受け、程なくして、声楽とピアノのレッスンを受け始める。海星中学校では、同期に西岡武夫がいた。

1950年、エンリコ・カルーソーやベニャミーノ・ジーリのようなオペラ歌手、コンサート歌手を夢見て、国立音楽高等学校(国立音高、現在の国立音楽大学附属高等学校)を受験している。合格後、進学に伴い上京。

歌手の道へ
ある時、帰省した際に、父が生活が苦しくなった親戚に対して無情に見捨てるような態度をとったことに激怒し、大喧嘩した。父から絶縁を言い渡され、仕送りも当然ながら止められた。丸山は東京で自活するために国立音高を中退し、生活費を稼ぐために進駐軍のキャンプ廻りをして歌を披露した。2015年時点で「芸歴64年、1951年(昭和26年)に進駐軍のキャンプ廻りでジャズを歌いギャラを頂いたことがプロとしての始まり」と丸山本人が語っている。新宿駅で寝泊りしていた時期もある。

1952年、17歳になった丸山は、ゲイバーやバーテンダーなどのアルバイトにも従事して日当を稼いでいた。この頃、ある店で頼まれてシャンソンを歌ったところ、店に居合わせた戦前からの宝塚スターの橘薫と知り合い、そこから淡谷のり子のマネージャーを通じて原孝太郎に師事した。その頃、銀座7丁目にあるシャンソン喫茶「銀巴里」(1951年 - 1990年)で美少年(ボーイ)兼歌手募集の張り紙広告を見て応募した。

1956年頃、別の店に原孝太郎を引き抜かれた「銀巴里」が丸山と歌手として専属契約を交わし、国籍・年齢・性別不詳として売り出す。次第に人気を博し、三島由紀夫、吉行淳之介、野坂昭如、大江健三郎、中原淳一、遠藤周作、寺山修司、なかにし礼等、文化人の支持を得る。歌手としての道を歩み始めた頃、父は事業に失敗し、子の丸山のもとを訪ねて金の無心をしてきた。かつての、父の親戚への無情な仕打ちと同じことを美輪が出来るはずもなく、かといって父を許せない気持ちが消えるはずもなかったが、兄弟の生活を守るために丸山は銀巴里での歌手活動とは別にアルバイトと称してキャバレーや進駐軍キャンプで歌った。

1957年、シャンソン「メケ・メケ」を日本語でカバーし、艶麗な容貌で、シャンソンを歌い上げ、一躍人気を博す。元禄時代の小姓衣装を洋装に取り入れ、レース地のワイシャツ等を身に纏いユニセックスファッションと[注釈 3]、三島由紀夫が「天上界の美」と絶賛した美貌で、マス・メディアから「神武以来の美少年」、「シスターボーイ」と評され一世を風靡する。同じ、1957年製作の映画『暖流』(増村保造監督。大映)に歌手として出演している。

「メケメケ」以来のブームは、1年程で沈静化した。その間に、週刊誌で自身が同性愛者である事を公表したことや、旧来のシャンソンのイメージ(美輪曰く「蝶よ花よ、星よ月よに終始する“おシャンソン”」)に無い、自ら和訳した生々しい内容のシャンソンを歌唱した事に対する反発もあり、人気は急落する。そんな逆風の中、作詞・作曲活動を開始した。今もって美輪の主要なレパートリーとなっている「うす紫」、「金色の星」、「ふるさとの空の下」等の音楽作品は、この頃、既に作詞・作曲していた。しかし、その活動は当時の聴衆からも歌謡界からも理解を得られず、レコード化すらできなかった。美輪曰く「人様の情けに生かされた」不遇の時代が続くと共に、吐血等の原爆症に悩まされ始める事になる。

しかし、1963年には、中村八大らの助力により日本初となる全作品、自らの作品によるリサイタルを開催した。1964年には、「ヨイトマケの唄」を初めてステージで披露する。1966年、前年の内にレコード化された「ヨイトマケの唄」(「ふるさとの空の下で」とのカップリング)が注目され、人気が再燃する。

俳優 丸山明宏
1967年、寺山修司の演劇実験室・劇団天井桟敷旗揚げ公演で、寺山が丸山のために書き下ろした舞台作品『青森県のせむし男』や『毛皮のマリー』に主演する。

1968年、自叙伝『紫の履歴書』を発表する。(初版は大光社より)

江戸川乱歩原作、三島由紀夫脚本の舞台作品『黒蜥蜴』に主演して以降も、『椿姫』、『マタ・ハリ』、ジャン・コクトー原作『双頭の鷲』といった舞台や『黒薔薇の館』、『雪之丞変化』等の映画・テレビドラマでの主演を続ける。また、1970年からは、TBSラジオ「ラジオ身の上相談」を担当し、芸能人が担当する人生相談としては、異例の25年という長期に渡り続いた。

美輪明宏への改名
1971年、三島由紀夫の供養のための読経中に『美輪』の字が浮かび、「生前三島氏が三輪神社で修行していたことに気づき神が与えてくれた名前だ」と思い、姓名判断を調べると、完全無欠な画数だったため、丸山明宏から美輪明宏に改名した。

「女優引退宣言」(女性役を演じなくなるので、当時こう表現された)を行い、歌手活動に専念する。銀巴里や渋谷ジァン・ジァンでのライヴや全国各地でのリサイタルを精力的に行い、『白呪』(1975年)等のアルバムも多数発表した。また、男性役では、映画(1977年 井上ひさし原作『日本人のへそ』)やドラマ(1976年『さくらの唄』)に出演している。

体調の悪化
1978年『枯葉の寝床』(原作 森茉莉)で舞台活動を再開するが、幼い頃から中華料理やイタリア料理、肉料理中心で食生活を過ごしてきたことにより体調に影響が出始める。この頃から慢性気管支炎も発症し、年々悪化していく。俳優、歌手活動に支障を来たし始め、トークショー等のテレビ出演を控える様になる。しかし、その後も演劇では、1979年にエディット・ピアフの生涯を描いた、自作自演となる『愛の讃歌』を初演したり、1980年のTVアニメ「メーテルリンクの青い鳥 チルチルミチルの冒険旅行」では夜の女王役を演じている。

1983年には、舞台『毛皮のマリー』や『青森県のせむし男』を再演した。更に1984年には、『双頭の鷲』を再演するが、体調は悪化する一方で、1985年の『大典礼』(原作・演出 フェルナンド・アラバール)を最後に1993年の『黒蜥蜴』再演まで舞台から遠ざかった。この頃の通院時に医師からは「3か月の命かもしれない」と告げられたこともあったと、1989年3月6日に出演・放送された「笑っていいとも!・テレフォンショッキング」で明かしている。

歌手としては、1984年にパリ、1987年には、パリ、マドリード、シュトゥットガルトでリサイタルを開催し、『ル・モンド』、『リベラシオン』を始め多数の新聞・雑誌に紹介・絶賛された。また、1986年からはPARCO劇場でのロングリサイタルが開始され、それ以外にも、全国各地でのリサイタル公演を開催し、舞台に立てなくなった後も切れ目なく活動を続けた。

1990年、東京芸術劇場のこけら落とし公演『マリー・ローランサン』を演出した。この時、既に『黒蜥蜴』再演の企画は持ち上がっていたが、体調面から断念している。また、この年、40年近く唄い続けて来た銀座のシャンソン喫茶店・銀巴里が閉店となり、美輪は最後の日の「さよならコンサート」で自ら作詞作曲した『いとしの銀巴里』を涙ながらに歌い上げた。この模様を各メディアは挙って大きく報じ、また翌1991年の映画『黒蜥蜴』のニューヨークでのヒットなども重なり、美輪が曰く、この頃から、「メケメケ、ヨイトマケ、黒蜥蜴に続く四回目のブーム」の時期が訪れ、テレビやCM等への出演が増えた。

黒蜥蜴再演
1993年、1985年の『大典礼』以来、舞台に立てない程に悪化していた持病が、前年に奇跡的に完治した事で、24年ぶりに待望の『黒蜥蜴』を再演。前売りのチケットは発売日当日に完売する等、世間から脚光を浴びた。また、この再演時には、自ら主演、演出、美術、衣装、選曲を担当した。以降、上演される舞台は、1994年、1996年の『毛皮のマリー』以外、全て美輪自身の演出となった。自身が、大道具、小道具、美術・衣装・選曲を務める事が多く、脚本・振り付けを担当した作品(美輪明宏版「椿姫」)や原作まで担当した作品(「愛の讃歌」)もある。

1994年には、海外から演出、照明、音楽等、当代一流のスタッフを招き、舞台『毛皮のマリー』を再演した。この形式は、1996年の再演時にも継承されるが、美輪曰く「演出があんまりひどい時は、私が手直しした」との事で、結局、2001年の再演では、自ら演出する事となる。キャストも美少女を含め、全員男性で演じる本来の形式に戻された。

1996年、三島由紀夫が30年来熱望していた美輪演出・主演による『近代能楽集より、葵上・卒塔婆小町』を上演した。三島を歓喜させた当初のプラン通り、葵上では、舞台デザインにサルバドール・ダリと尾形光琳を取り入れ、音楽は、武満徹の『ノヴェンバー・ステップス』を取り入れ、99歳の老婆から19歳の美女への早替り(卒塔婆小町)など趣向を凝らした舞台となる。また、その年の秋には『愛の讃歌』を17年ぶりに再演した。

声優としても活動
1997年、13年ぶりの『双頭の鷲』再演で読売演劇大賞優秀賞を受賞した。宮崎駿監督のアニメーション映画『もののけ姫』では、山犬神、モロの君の役で声優を務め、東京スポーツ映画大賞助演男優賞を受賞する。「黙れ小僧!」は特に印象的な台詞として多くの人に記憶された。

1998年、『葵上・卒塔婆小町』を再演し、秋にはデュマ・フィス原作「美輪明宏版 椿姫」を30年ぶりに再演する。この年2本の芝居を上演したのを最後に、翌年の『双頭の鷲』以降、舞台作品は年1本の上演ペースとなる。一方、美輪が舞台活動を再開した1993年以降、芝居のスケジュールとの調整が必要となり公演がない年(1996、1997年)もあったPARCO劇場でのロングリサイタルは1998年以降「音楽会」と名を改め、毎年行われる様になる。以来、美輪のステージは春先の芝居、秋の音楽会で定着した。

2000年、銀巴里閉店後、唯一のライブ活動の場となっていた渋谷ジァン・ジァンが閉場となり、2000年3月29日が美輪のジァンジァンにおけるラストライヴとなった(閉場は2000年4月25日)。そして、エディット・ピアフの生涯を描いた舞台『エディットピアフ物語愛の讃歌』を上演した。また、この年、アルバム『白呪』が再発売される。桑田佳祐がフジテレビ系『桑田佳祐の音楽寅さん』内で『ヨイトマケの唄』を歌ったのもこの年である。

2002年に芸能生活50周年を迎える。この年には、三島由紀夫の三十三回忌に際して、『近代能楽集より 葵上・卒塔婆小町』を再演している。(相手役は宅麻伸)

2004年に宮崎駿監督のアニメーション映画『ハウルの動く城』で「荒れ地の魔女」の声を演じる。

2005年には、テレビ番組『オーラの泉』が始まり、「愛の伝道師」として出演した。

2006年、美輪明宏原作、演出、美術、衣装、主演、舞台『エディットピアフ物語愛の讃歌』を再演した。

2007年、美輪明宏携帯サイト「美輪明宏 麗人だより」を開設した。

2009年、劇場版ポケットモンスター ダイヤモンド&パール アルセウス 超克の時空へ(劇場版ポケモン第12弾)でアルセウスを演じる。

晩年
2010年、三島由紀夫原作の舞台『近代能楽集より 葵上・卒塔婆小町』を再演した。(相手役は木村彰吾、岩田知幸)

2012年、『第63回NHK紅白歌合戦』に初出場を果たし、「ヨイトマケの唄」を歌った。77歳での『NHK紅白歌合戦』初出場は史上最年長で、デビュー60年での初出場も史上最長記録である。歴代出場者全体の年齢から見ても、1989年の『第40回NHK紅白歌合戦』に満78歳で出場した藤山一郎に次ぐ歴代2位。

2013年1月24日発売の「週刊文春」で、約8年前に自身の個人事務所「オフィス・ミワ」社長と養子縁組している事が報じられた[19]。『第64回NHK紅白歌合戦』に出場し、藤山一郎の持つ最年長出場に並んだ。

2014年4月から、美輪明宏主演の舞台『愛の賛歌〜エディット・ピアフ物語』がリバイバルで全国公演される。前回の公演ではこの舞台を見た瀬戸内寂聴が感激して楽屋を訪れ、「私は今まで映画や舞台をたくさん見てきたが、この芝居が一番感動した」と言って号泣したという。同じく、この舞台を見た東山紀之も感激して美輪の楽屋を訪れ、「僕、今まで自分がこんなに泣けるとは思わなかったですよ」と言い号泣したという。同年『第65回NHK紅白歌合戦』に出場し、史上最年長出場記録を打ち立てた。

2015年、『第66回NHK紅白歌合戦』に出場を果たし(翌年落選し、これが生涯最後の出場となった)、自身の持つ史上最年長を更新すると同時に史上初の80代での出場となる。

2018年、東京都名誉都民に顕彰される[1]。

脳梗塞からの回復
2019年9月11日、軽い脳梗塞を発症し入院した。舞台公演が中止になる[20]。入院から約2か月後の2019年11月17日、TBSラジオ「美輪明宏 薔薇色の日曜日」で仕事に復帰した。同年12月17日に東京・西新宿で行われた「明治きのこの山・たけのこの里国民総選挙2019」の結果発表会に出席し、公の場での復帰を果たす。

2022年、第73回NHK放送文化賞を受賞[21]。同年に世田谷区名誉区民として顕彰される[22]。

2025年、第60回紀伊國屋演劇賞特別賞を受賞[23]。

死去
2026年6月20日午前9時30分、老衰のため東京都内の自宅で死去した。91歳没。訃報は同月28日、所属事務所から公表された。


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