『日本の神話伝説』を読んだ。
読み進めるうちに、日本神話が単なる物語ではなく、長い縄文時代の精神性を土台として成立していることが、腑に落ちるように理解できた。
古事記や日本書紀は、突然生まれた体系ではない。
はるか以前から人々の間で語られてきた、自然への畏怖、生命の生成と死、性への直感的理解──そうした感覚が、形を変えながら記録されたものなのだと感じた。
なぜ土偶は「作られ、壊された」のか
本書を通して最も印象に残ったのは、
縄文人がなぜ土偶を作り、そして壊したのかという問いに対する示唆だった。
母神が殺され、その身体の破片から作物が生まれる。
女神の死体を切り刻んで埋めると、そこから芋や穀物が生まれる。
この発想は、神話の中だけの残酷な想像ではない。
実際の農耕──芋を切り、土に埋め、そこから新たな命を得る行為と、驚くほど重なっている。
壊すことは終わりではなく、再生の始まり。
土偶破壊は、母神の死を通じて豊穣を願う、きわめて切実で現実的な祈りだったのではないか。
アマテラスという「異質な最高神」
アマテラスの描かれ方も、非常に興味深い。
多くの神話に見られる、荒々しく、暴力的で、情動的な最高神とは対照的に、
アマテラスは一貫して流血と殺害を嫌い、平和的で、統治的な存在として描かれている。
生まれながらにして、何の争いもなく天上の王位に就く。
暴力によって秩序を作るのではなく、暴力を拒むことで秩序を保とうとする神。
この姿は、日本神話の中でも際立って異色であり、
同時に、日本社会に根づく「調和」や「忌避」の感覚の原型を見ているようにも思えた。
矛=生殖器という理解
本書で示される「矛」の解釈も、非常に納得感があった。
イザナギとイザナミが、天の浮橋から矛を混沌の海に差し入れる。
オホクニヌシが「八千矛の神」と呼ばれる。
矛は単なる武器ではなく、男性の生殖力の象徴である。
世界の創生が、暴力ではなく「性」から始まるという視点が、ここにはある。
そう考えると、
スサノオがアマテラスを傷つけた行為も、単なる乱暴ではなく、
母性への固着、近親相姦的欲望という、きわめて深層的な衝動として理解できる。
神話は、きれいごとを語らない。
人間の持つ、危うさや歪みをも含めて描いている。
豊穣と死を併せ持つ母神
豊穣の女神であり、同時に死をもたらす存在。
この二面性を持つ母神の姿は、山の神、山姥、昔話の中の異形の女たちへと姿を変えながら、今も生き続けている。
食べ物を体内に宿し、与え、殺され、分解され、そこから新たな命が生まれる。
生と死は切り離されていない。
生きるとは、誰かの死の上に立つこと。
その厳然たる事実を、神話は決して隠さない。
神話は今も続いている
古事記や日本書紀に書かれた神話だけが、日本の神話ではない。
縄文時代から連綿と語り継がれてきた物語は、
昔話や伝説という形で、各地に今も残っている。
それらを辿ることは、
日本人がどのように自然を見、性を捉え、死と向き合ってきたのかを知る手がかりになる。
この本は、
神話を「過去の物語」としてではなく、
今の私たちの感覚の底に流れているものとして再発見させてくれた一冊だった。
備忘します。
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日本の神話伝説を読みましたアマテラスは、このようなよ、このような他の神話の最高人たちに共通して見られる、春元極まりない無実さと全く正反対に、実に徹底して肝心であり、本当にびっくりすること自体。その事は、スサノオが高原にやってきてしたひどい悪用に対して、この女神が取ったと物語っている態度に、特にはっきりとしました。ページ15 このように流血と殺害を極度に意味嫌う態度がアマテラスに一貫しており、この女神の本質そのものに属するということをさらにまた、日本書紀の中の次の記事からも極めてはっきりと確認することができる。ページ17 このような他の神話の最高神たちに比べてみた場合、既に見たように生まれるとすぐ、何の暴力も使わずに、当然のこととして、全く平和的に天上の王位に即かせられたことになっているアマテラス大御神には、この辺でも他の神話に類例のほとんどみいだせぬ、際立って異色な存在であることが明らかであろう。ページ26 最初に現れたアメノミカナヌシは、その名の通り天の中央に位置し、これから始まるすべての創造の力の根源となる至高神である。次に現れたタカミムスヒとカムムスヒは、「産す霊」すなわち「生成力」を意味する一対の神であると言われ、後に神話の中で一方のタカミムスヒは主に統治や刑罰に関わる働きを、他方のカムムスヒは生産や医療に関わる働きをするところから、それぞれ男性的な原理に基づく生成力と女性的な原理に基づく生成力を代表していると考えられている。ページ34 ところで、このアメノミカナヌシとイザナギとイザナミと言う3者の組み合わせは、天と地が分かれ始めたとき高まが原に最初に現れてあらゆる創造の力の根源となった、アメノミカナヌシとタカミムスヒとカムムスヒの3者の組み合わせとよく似ている。どちらの場合にも創造的活動の始まりにおいて、中心となる地点と男性原理と女性原理の組み合わせが生じ、それが生成の力の源泉となっている。ページ41 結局イザナギとイザナミの最初の成功は、多くの生命を誕生させるとともに世界に死をもたらしたので、我々は性を獲得することによって子孫を残すことができるようになったこと、それと同時に手を持手に入れたとされているわけである。ページ51 このようなよ豊穣の女神と死の女神と言う正反対的な2つの側面を持つ大地の母神の姿は、山の神や山婆などの伝承の中にも今日もなお生き続けている。。ページ57
原初にイザナギとイザナミが天の浮橋の上に立ち上われて、混沌の海の中へ矛を差し入れることから始まった世界の創生は、ここで1つの区切りを迎える。最初オノ頃オノゴロ島での二神の結婚によって世界に初めて「性」が導入され、その結果今日の日本の国土や山川草木など多くの自然界の神々が誕生した。ページ69
スサノオは姉のアマテラスに母の代わりを求め極端に甘えて暴力を振った結果、彼女の女性器に傷を負わせてしまった。このスサノオの恋には、母親に対する固着の最も極限的な形ー近親相姦ーの意味が認められるのではないかとも言われている。ページ83
ヌナカヒメとの歌のやりとりの中で、オホクヌシは「八千矛の神」と呼ばれている。矛は神話の中で、しばしば男性の生殖力の象徴とみなされる。例えばイザナギとイザナミは原初の海の中に天の沼矛を差し入れることによって最初の陸地オノゴロ島を誕生させた。つまり「八千矛の神」の名は生産者的機能神の代表者としてのオホクヌシの本質的な能力である性的魅力の成熟、生殖力の旺盛さを強調し称える意味を持つ名前なのである。ページ128
現在のあまのじゃくという言葉は、アメノサグメの転じたものと言われているが、何でも逆らったり正反対のことを言いうひねくれもの、昔話の中で瓜子姫になりすます偽物、人の口真似をする「山彦」やまびこなどの意味で用いられている。ページ164
アメワカヒコの葬儀や営まれているところへ、アジシキタカヒコネと言う神が弔問に訪れた。この神はオホクヌシの息子で、アメワカヒコの妻となったシタテルヒメの兄にあたるが、その容姿はアメワカヒコと瓜二つだったと言われている。ページ172 天つ神の御子と海神の娘との結婚はこうして別離に終わったが、ホリリのもとには海神の血をく息子・ウカヤツキアヘズが残された。彼は成長した後、母とよたま姫の妹で彼を養育してくれたタマヨリヒメと結婚する。ウカヤツキアヘズとタマヨリヒメとの結婚によって生まれた子供は、古事記に従えばまず五瀬の命、次に…そして初代の天皇神武となる4人である。ウカヤツキアヘズは、長い間支配者として過ごした後西の国の宮で死去し、日向…に葬られた。ページ253 三種の神器は言うまでもなく、皇室にとって何よりも大切な宝物だ。そして八咫の鏡や伊勢神宮で、草薙の剣は熱田神宮でご神体としてつられていく。この点でも三種の神器は、スキタイ人の王様の3つの宝物が、代々の王達に何よりも大切にされて、まるで神のように祀られていたのと本当によく似てる。ページ285
宝物とか食べ物を体の中に持っていった女神が殺され、死体から最初の作物できたと言う話は、元はこのように簡単なやり方で、芋や実のなる木などを植え、それを食べて暮らしていた人たちの間で生まれたのではないかと思われる。なぜなら、まず女神の死体を切り刻んで埋めるとそれが芋になるというのは、芋を植えるときに、実際に親の芋を切って土の中に埋めるやり方によく似ている。ページ316 縄文時代の人たちは一体なぜ、尊い母神の姿を像に作って、その像を壊すことでその母神を殺してしまうような、奇妙に思えることを繰り返していたんだろうか。それは彼らが、母神が殺されると、その死体の破片から作物が流出てくるという信仰を持っていたからではないかと考えられる。ページ319
その神話の主人公の女神も…同様に、体の中においしいご馳走をどっさり持っていて、それをどんどん出して、人々に食べさせてくれる。そして殺されて体をバラバラにされると、破片の一つ一つから様々な種類の作物が生まれると信じられていたのだと思われる。ページ320
それをかぶると汚いおばあさんになりて、脱ぐと美しい娘に戻れる、この化けの皮はガマガエルの皮できた頭巾と言われている。そしてその宝物の持ち主であるヤマンバは、話の初めではカエルの姿になった人だとやってきて、そこで蛇に飲まれそうになっていたと物語っている。ページ334……神話になって、古事記と日本書紀の信用の中に取り入れられる一方で、この縄文時代からあった古い神話はまた日本の各地で、いろいろな昔話や伝説に形を変えて今日まで物語り続けれれてきた。それだから古事記日本書紀に書かれた神話だけでなく、各地に語られてきた昔話や伝説このように、大昔の縄文時代から我が国にど神話神話があったのかを知るための大切な手がかりとなるのだ。ページ356
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