― 出雲大社発掘の驚きと神社建築の記録 ―
『大社建築事始め』を読みました。2000年に行われた出雲大社の発掘調査を中心に書かれた本ですが、実際には冒頭の二章を除くと直接の発掘記録とは関係が薄い部分もありました。今回は自分の備忘も兼ね、印象に残ったところをまとめます。
発掘の興奮と「46メートル」の衝撃
この本の最大の魅力は、発掘直後の「現場の興奮」がそのまま伝わってくる点です。長らく「出雲大社の本殿が46メートルなんてあり得ない」とされていた説。しかし、実際に掘り出された柱跡はその規模を裏付けるものでした。
「虚構だと思われていたものが現実だった」――まさに日本建築史における大ニュースだったのだと改めて感じます。
出雲訪問の思い出
私自身は2013年に出雲を訪れました。参道から本殿まで下り坂になっているのは、かつて長大な橋が架かっていたからだと言われています。一方で「ヤマト政権の嫉妬ゆえ」という説もあるそうで、歴史の奥深さを思わされました。
鳥居近くでは竹内まりあさんのご実家である日本旅館に宿泊し、参拝もしました。ただ、道を間違えて「稲佐の浜」を見損ねたのは今でも心残りです。
神社建築の整理
神社建築には大きく二つの系統があるとされます。
常設・大型の本殿
神明造、大社造、住吉造(p.11)
仮設的・小型の本殿
流造、春日造(p.18)
前者は直線的で堂々とした構造、後者は曲線や庇を特徴とし、可動性も備えていました。
また「雲太・和二・京三」という言葉について、本書では単なる高さの順位ではないと批判が紹介されます。しかし私はやはり「太郎・次郎・三郎」と同じく序列を示す言葉であり、大仏殿よりも高かった事実を示す根拠と考えてよいのではないかと思います(p.28)。
さらに重要なのは、出雲大社が古代以来続けてきた掘立柱建築から、慶長度の造営で初めて礎石建築に変わったという点です(p.61)。実際に見つかった三箇所の柱跡は文献記録と一致し、考古学と歴史資料が結びつく感動が記されています(p.62)。
結びに
記紀やその後の文献に登場する「高層神殿」は、虚構ではなく確かな建築様式だった――。本書を読み終えて、そのリアリティーを強く感じました(p.73)。
出雲大社の造りが持つ「意味」と「アイデンティティー」が、時代を越えて継承されていることを改めて実感できる一冊でした。
👉 次に出雲を訪れる際には、今度こそ「稲佐の浜」を歩きたいと思います。
備忘します。
>
神社建築は大きくふたつに分けられます。まず常設つまり建物が常に立っている状況を意図していると同時に、大型であることが本殿があります。ここでは神明づくり、大社づくり、住吉づくりを上げておきます。ページ11
ページ11
流造、春日造は、仮設性があり比較小型です。古いものは土台の上に立ち、建物が移動しやすくなっています。屋根には庇があり、どちらかというと曲線が目につくデザインです。ページ18
次に「雲太、和二、京三」の解釈についてです。これは高さの1番2番3番を表したものではなく、神社建築の1番、仏前の1番、宮殿の1番を上げたに過ぎないと解釈されて単純に高さの比較ができないという批判が出ております。でもやはり太郎次郎三郎と言う1番2番3番ということですから、何らかの価値基準があって、その元に1番2番3番を決めたものだと私は思います。ですからやはり奈良の大仏殿よりも高いということがこれで充分いえるのではないかと私は思います。ページ28
もともと日本古来の建築技法は掘立柱だ、という考え方があるわけです。現に伊勢神宮は今でも摂社末社を含めて掘立柱建物ですね。出雲大社の場合も日本固有の神々が住まいする神社建築は掘立柱がふさわしい、ということで、古代からずっと掘立柱建物を踏襲してきたんですが、この慶長度の造営の時に改めて議論になって、結局この時から礎石建物に変換した、ということが文献記録に記されています。我々が掘ったのは、出雲大社の本殿が初めて礎石立てになったときの画期的な造営の柱跡でした。この後現在に至るまで本殿は礎石立てで建てられています。ベジ61
見つかった柱跡は全部で3箇所です。その間隔が記録にある慶長と造営の本殿の柱の間隔とほぼ一致しました。こういう時に出雲大社のように記録や絵図があるところを調査させてもらえる喜びを感じますね。ページ62
記紀の記述やそれ以後の文献に間接的に登場する高層神殿の存在というものが虚構や誇張ではなく、かなりリアリティーを持つ建築様式として見えてきましたね。大社造りの強いアイデンティティーといいますか、意味のある構造だから継承されるといいますか…。これを少し飛躍させると例の田山遺跡の基本柱の話に結びつけられるんですけど。ページ73
<<