2013年ごろ、私は仕事の合間を縫って、日本各地の神社や史跡を巡っていました。
出雲大社、宇佐神宮、伊勢神宮、神武天皇陵、熊野、諏訪、明日香……。
当時は、正直に言えば「傷心」を抱えた時期でした。
経営のこと、人生のこと、自分自身のあり方に迷いながら、「日本人とは何か」「自分とは何か」を問い続ける旅でした。
そのきっかけとなった一冊が、本書でした。


📍 地図とともに読む、知的な旅
『古事記を旅する』は、単なる歴史解説書ではありません。
地図・写真・現地取材をもとに、「神話と現実の風景」をつなぐ“旅の本”です。
特に印象的だったのは、
• 沖ノ島の禊
• 黄泉比良坂の実像
• 白兎神社の静けさ
• 糸魚川ヒスイの謎
• タケミナカタの逃走ルート
など、「神話が現実の土地に重なる瞬間」です。
時間はかかりますが、その分、実に楽しい読書体験でした。


📚 “対で読む”ことで深まる理解
本書は、
• 口語訳古事記
• 古事記講義
とあわせて読む構成になっています。
該当ページが示されているので、非常に実用的です。
「読む → 確かめる → 深める」という循環が自然に生まれます。


⚔️ ヤマトとイズモ――対立ではなく共存
本書を通して感じたのは、
ヤマトとイズモは「勝者と敗者」ではなく、「妥協と共存」で歴史を築いたという視点です。
これは現代の組織経営や地域連携にも通じる話だと感じました。
力だけでは続かない。
調和があってこそ、文化は残る。
そんな示唆を受けました。


🌊 東国・九州・ヤマトへの展開
第二部・第三部では、
• 高千穂
• 神武東征
• 瀬戸内
• 熊野
• 伊勢
• 奈良
• 宇治
へと舞台が広がります。
印象的だったのは、「太平洋側の歴史の浅さ」という視点。
日本海側とは異なる成り立ちが、よくわかります。


🎓 100分de名著との併読
あわせて、私は
100分de名著 古事記
も視聴しました。
非常にわかりやすい構成でしたが、やはり「原文と現地」を知ることで、理解は何倍にも深まります。
特に印象的だったのは、
日本の神は「つくる」のではなく「なる」存在
という解説でした。
これは、日本的なものづくり精神にも通じると思います。


🌱 古事記は「生き方の書」
古事記は、単なる神話集ではありません。
「なぜ私は、ここに生きているのか」
「この国は、どう形づくられてきたのか」
そうした根源的な問いに、静かに答えてくれる書物です。
本書は、その入口として、これ以上ない一冊だと思います。
私はこの本を、永久保存本にします。
備忘します。

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…奉仕船から降りてきた参拝者が禊ぎをしている。まるでヌーディストビーチのように全裸で海に入ってゆくが、体型の崩れた中年男が多くて華やかさや色気はまるでない。言い忘れたが、沖の島は女人禁制の島である。(p.34)
…黄泉つ平坂は「出雲の国の伊賦夜坂」だと伝えているが…三つの大岩が立っている。そこは何の変哲もない丘の一角で、無理やり探し出された伊賦夜坂としか思えず、これが黄泉の国への入口かと疑惑の目を向けてしまう。(p,52)
現在は佐陀神能保存会の手で伝承されているが、その技量は舞も囃子も相当なレベルである。…見物人は数えるほどしかいない…(p.61)
…鳥取市白兎にある白兎神社である。…ほとんど忘れ去られたように小高い丘の上に立つ白兎神社は手入れが行き届いているとは言いがたく…ちょっと寂しい風景である。(p.76)
…縄文時代の遺跡から発掘されるヒスイは、すべて糸魚川産である。北は北海道、南は長崎県まで、多くのヒスイが日本列島に拡がっている。…ところが7世紀以降、ヒスイは日本列島から忽然と消えてしまう。…そして、千三百年もの空白の後、昭和14年になってヒスイは再発見されたのである。(p.100)
…オホクニヌシの子タケミナカタが、なぜ諏訪の地に逃げたのか、その道筋はどこを通ったのか…タケミナカタは日本海を東に逃げ、母神のいます沼川郷から川を遡って諏訪に入った…(p.106)
大和朝廷は、北の蝦夷と南の隼人を、朝廷に附属しないものたちとみなし、討伐を繰り返してきた。九州南部が完全に掌握されえるのは、薩摩国と大隅国が建国される七世紀末から八世紀初頭と考えなければならない。(p.142)
…ウサツヒコ、ウサツヒメ…このように地名と同じ名前をもつ男女は、ほとんどの場合は兄と妹である。政と祭とのマツリゴトを兄妹が分掌する「彦姫制」という統治形態があった。邪馬台国の卑弥呼とその男弟との関係もその一例である。(p.147)
ワカタケル(雄略天皇)が没し…天皇家の跡継ぎが絶えた時だった。…まずはじめに弟ヲケ(顕宗)が即位し、その後を兄オケ(仁賢)が継いだ。五世紀末の出来事として伝えられているシンデレラ・ボーイの栄光の物語である。(p.159)
ある意味では、伊勢神宮と天皇家あるいはヤマト王権との関係は、それほど古いものではない。…
古事記の伝承の中に伊勢神宮が登場するのは、一カ所だけである。それはヤマトタケルが東征に出発する場面である。(p.173)
…犠牲になったオトタチバナヒメを偲んで「アズマはや(わが妻よ)」と嘆いたことに由来する。古事記では、その東国をアヅマと呼ぶようになったと語っている。(p.198)
…邪馬台をヤマタイと訓むのは間違っているということだけは主張しておきたい。音読される文字なのだから、いずれの漢字も一音で訓むべきで、とすれば、ヤマトと訓むのが妥当である。…邪馬台国は、三輪山麓あるいはその近辺の、ヤマトと呼ばれる地にあったとするのがもっとも自然な理解だろう。(p.248)
…タヂマモリが大君から採ってくるようにと命じられたのは、永遠に輝きわたる木の実だったのである(タチバナ)…(p,250)
…橿原神宮は、東の明治神宮と同様、近代国家の象徴として祀られることになった、まさに近代天皇制のメッカなのであり、新しいのは当然である。(p.256)
…こうした滅びの美学とでも呼べる伝承を語り伝えるところに、古事記という作品の本質があるといってよい。(p.268)
…宇治川には皇位を狙って失敗したオホヤマモリの伝承が語られている…オホヤマモリが殺されたあとは、オホサザキとウヂノワキイラツコと争うになるはずだが、この2人は奇妙なことの位を譲り合う…(p.302)
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