「物語 上野動物園の歴史」(副題「園長が語る動物たちの140年」)を読みました。2010年に当時の小宮園長が書かれたもので、日本初の動物園である上野動物園の歴史が丁寧にまとめられています。

読み終えて、あらためて「上野動物園に行かなければ」と思いました。近いうちに訪ねてみたいです。若い頃には何度も行きましたが、最後に行ったのは子供を連れてパンダを見に行ったときでした。ガラス越しに見た記憶が蘇ります。

戦時中の象の花子の話は知っていましたが、本書では詳しく触れられていませんでした。おそらく辛すぎて書ききれなかったのかもしれません。その一方で、動物園が「見世物小屋」から「自然や繁殖を守る場」へと変わっていく過程がよく伝わってきました。飼育環境を改善しようと努力してきた歴史は、ひいては人間の生存や環境保全にもつながっていると感じました。

印象に残ったエピソード

1882年3月20日、明治天皇の行幸を仰ぎ、日本初の動物園が開園。

同年9月には園内に「乾魚室」が公開され、日本初の水族館「うおのぞき」が誕生。オオサンショウウオが大人気だったそうです。

1901年、ハーゲンベックから購入した最初のライオンが大人気となり、檻の前に警官が配置されるほどだったとか。

1930年代には猿山に日本猿が導入され、ようやく安定した姿に。

戦時中(1943年)、猛獣処分命令で多くの動物が犠牲となったが、象は薬入りの餌を食べず、処分できなかった。

戦後直後、敵国アメリカ・ソルトレイク市から最初の動物が贈られるという不思議な交流。宗教的背景や日系人への思いがあったことを知りました。

1949年、インドのネール首相から象の「インディラ嬢」が贈られ、平和の象徴となった。

1972年、日中国交正常化の際に贈られたジャイアントパンダは、公開初日に2キロもの行列ができた。

こうしたエピソードの積み重ねが、今日の上野動物園を形づくっているのだと実感しました。

動物園の役割の変化

特に印象的だったのは、動物園が「人間の娯楽のための場所」から「命を守り、自然との共生を学ぶ場」へと大きく変わっていったことです。ゴリラに牧草を与えたエピソードや、カルガモ文化の広がり、トキ絶滅の記録など、動物と人間がどう関わってきたのかを象徴する出来事が多くありました。

読後、ただの歴史読み物ではなく「人間と動物、自然との関係史」を学んだように思います。次は実際に上野動物園を訪れて、その空気を感じてみたいと思います。

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1882年3月20日、明治天皇の行幸を仰ぎ、博物館と上野動物園の戴冠式が挙行され、午後2時半から一般公開された。日本初の動物園が開園したのである。ページ18
開館した年の9月20日には動物園内に乾魚室が公開され、日本最初の水族館として産声を上げている。この水族館は「うおのぞき」という名で親しまれ、オオサンショウウオが大人気で、他は金魚、鯉、フナなどが飼われていた。ページ19
今となっては確かめるすべはないが、日本にはオオカミとヤマイヌと呼ばれた別の動物が生息していたのかもしれない。…大型の蝦夷オオカミは日本オオカミより早く1896年に絶滅したとされている。ページ38
ウシウマとはかつて種子島で飼われていた小型の在来種で、現在は絶滅し、その姿を見ることはできない。ウシウマは…尾に毛もなく、皮膚の状態が牛に似るために、この不思議な名がついた。牛と馬の雑種でない事は明らかである。ページ46
シフゾウは鹿としては大型で、変わった形の爪や体型をしていることから…すなわちわ…すなわち爪は牛に、頭は馬に、体はロバに、角は鹿に似ていて、そのどれでもないことから四不象という名がつけられた。ページ48
1901年、ハーゲンベックから購入したライオンは上野動物園最初のライオンで、人気及び、連日見物人が押し掛け、1時は檻の前に巡査3名が配置されるほどの騒ぎとなった。ページ63
現在の上野動物園でも、北極グマを見た子供たちは「白くまさんだ」と第一声を挙げる。しかし、明治時代の上野動物公園では、白熊とホッキョクグマは別の動物であった。…最初の白熊は1891年に上野動物園に寄贈された。この白熊は北海道…ヒグマのアルビノで、…黒い兄弟と一緒に捕獲されたものであった。ページ67
猿山は当初の計画では日本ざるを飼うことになっていたが、群れで入手ができなかった。そこで猿の雑居ケージにたくさん飼われていたカニクイザルが放たれた。ページ97
1932年に日本猿の幼獣17頭が導入され、やっと猿山は落ち着いた。ページ98
226事件、阿部貞事件、黒豹脱出事件は昭和11年の3大事件と言われた。ページ112
1943年7月、帝都防衛の強化を理由に東京市は東京都に併合され、東京都が発足した。8月16日、大立茂雄と長官により、27頭の猛獣処分命令が下された。ページ118
多くの動物は虐殺したが、三頭の象だけはどうしても薬入りの餌を食べなかった。ページ120
1948年10月10日、動物園から子供たちへの贈り物の第3弾として、おサル電車が開業し、爆発的な人気をよんだ。ページ137
上野動物園に最初に送ってくれたのは敵国として戦ったアメリカである。それも終戦直後の混乱期に、なぜアメリカの地方都市であるソルトレイク市の動物園との間に動物交換が進めたるのであろうか。戦争が始まるとカリフォルニア州にいた多くの日系人は内陸部に送られ強制収容された。ユタ州ソルトレイク周辺の強制収容所にもかなりの日本人が収容されている。ソルトレイク市はアメリカ社会でも迫害されてきたモルモン教徒の街であり、宗教上の心情から収容された日系人を暖かく迎え入れてくれた。戦後そのままユタ州にいついてしまった日系人も多く、上野動物公園の窮状を知り、戦後最初の動物がプレゼントされたというわけである。ページ142
1949年10月1日には吉田首相も出席し、象、インディラ嬢の贈呈式が盛大に行われた。ネール首相からの「インドや日本の子供たちが成長したときに、世界平和のために協力してください」というメッセージとともにインディラは平和の象徴となり、日本の戦後史に刻まれている。ページ147
インドからの象とは別にタイからの象を運ぶ話は6月ごろから始まり、10月にオス、2頭の赤ちゃん像を送ると連絡が入っていた。…名前も花子と言うのは1935年にタイの少年団から送られ1943年の猛獣処分で命を落としたワンディーにつけられていた名を襲ったものでもある。…上野動物園は活気を見せ、1949年の入園者数は3,720,000人を超えた。ページ149
1950年4月28日には、インディラを主役に、マントヒヒ、ヒグマ、孔雀、オウムナドとともに移動動物園が出発した。…移動動物園は動物園のない各地に動物園ブームを巻き起こした。ページ150
1958年の狩野川台風で皇居の壁が崩れたときには、おしどりが300羽もしのばずの池に避難してきて、池が赤く見えたこともある。ページ154

人間は怖くない、日本人は優しいという、しのばずの池を発祥地とするカルガモ文化はたった20年ほどで日本全国に広がった。ページ155
当時、上野からの返礼動物の希望を問い合わせると、オオサンショウウオとともに日本のツルが欲しいという返事が多かった。特にタンチョウは大型で白い体と黒い翼のバランスが美しく、頭の赤は日の丸をイメージさせる。…まさに日本の鶴である。ページ166
1957年7月6日、谷中の旧天王寺五重塔が心中放火により消失した。上野に残されたもう一つの五重塔の保存に頭を痛めた寛永地は、翌1958年五重塔周辺の3333平方メートルを東京都に寄贈し、五重塔は夜間の人の出入りができなくなる上野動物公園の敷地となったのである。ページ178
皇帝ペンギンに水虫薬を吸入させて肺のアスペルギルス発生を抑え飼育を成功させたことが、国際的に高く評価され、上野動物園の獣医学、飼育技術レベルの高さを世界の動物園に示した出来事であった。ページ181
トキは2003年10月10日の金直して日本土着の時は絶滅した。ページ185
コビトカバはジャイアントパンダと共に世界3大珍獣の1つであると言われた。ページ195
1972年9月29日、日中国交回復を記念して、日本にジャイアントパンダが贈呈されることになった… 11月4日に開催した記念式典の翌5日から一般公開が始まり、徹夜で待った人もいて、開園時間には既に大勢の人が集まり、長蛇の列は2キロメートルも及んだ。ページ216
…ゴリラの飼育は衛生最優先で寝室はタイル張り、放牧上は全面コンクリートで土も草もないものだった。…思い切って牧草を与えてみた。オスのブルブルは青々とした草を握り締め、まさにむしゃむしゃと食べ始めた。1957年に上野に来てから35年目で初めて食べる牧草である。万が一の場合は抗生物質の投与もあると覚悟して、…以来腹を壊すどころか固い良い糞をするようになった。ページ234
2006年4月に完成した「くまたちの丘」では秋から冬眠に取り組んだ。ページ266
日本人が作り出した動物で世界的に通用するものに、錦鯉と日本鶏がある。古からの日本鶏である小国の名は正しい時を告げるという意味の正刻、正告から発生したとされ、日本人は鶏の第一の用途を時計がわりとして飼い始めたらしい。ページ282
地球上の様々な動物を身近に見て、その姿、体を五感で感じ、驚くというのは、動物園で見られる感動の最も基本的なものだと思う。ページ289

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