2016年、高千穂を訪れたとき、夜神楽を実際に見る機会がありました。伊弉諾と伊弉冉が抱き合う場面では、会場全体が笑いに包まれ、本書『熊野から読み解く記紀神話』に描かれている通りの光景を自分の目で体験できたことを今も鮮明に覚えています。
一方で那智の滝に立ったときには、「ここには神様がいる」と直感しました。滝上に張られた大きな注連縄は、ただの風景ではなく、聖域そのもの。熊野が「死者の国」と呼ばれ、スサノオとの関わりが深いという記述にも、現地を歩くと不思議と腑に落ちるものがありました。出雲神話を熊野に置き換えても違和感がない、そんな土地柄です。
熊野はまた、神武天皇が熊野から攻め上り、太陽を背にして戦った場所でもあります。死からの再生、革命の始まり──熊野はまさに「蘇りの地」と呼ぶにふさわしい場所でした。那智の滝が女性の象徴、生命力の源とされるのも納得です。私が訪れた2016年は、2011年の大きな台風被害から復旧が進み、道や景観が整いつつある時期でした。
古墳と歴史への思索
大阪の今城塚古墳を訪ねたときには、そこが継体天皇陵であると考えられていることに深い感慨を覚えました。立派な陵墓を前に、歴史の厚みと天皇という存在の連続性に思いを馳せずにはいられませんでした。
徐福伝説と「秦」氏の痕跡
『熊野から読み解く記紀神話』で印象的だったのが徐福伝説です。徐福が最初に九州に降り立ち、熊野を経て、最終的に富士山を蓬莱山として見いだしたという伝承。随行した3,000人の部下が「秦」という姓を名乗ったという話も興味深いものでした。
京都・太秦の広隆寺が秦氏の氏寺であり、国宝の弥勒菩薩像が伝わっていることも新鮮な発見でした。熊野市の波田須が「秦住」と呼ばれていたという記述を読むと、歴史の断片が一気につながるように感じます。
熊野の本質──死と再生の地
本書を通じて改めて感じたのは、熊野が「死と再生」を象徴する地であることです。スサノオの追放や神武天皇の東征は、個人の試練であると同時に、国づくりの通過儀礼でもあったのです。太陽を背に戦うという表現は、アマテラスの威光を背負うことそのもの。記紀神話の世界観が鮮明に浮かび上がります。
さらに、那智の滝を「母なる存在」とする描写には大きな共感を覚えました。懐かしい安らぎと、生命を生み出す絶対的な力──それは自然を前にした人間の根源的な感覚です。
南方熊楠のまなざし
熊野を語る上で欠かせない人物が南方熊楠です。世界を旅しながらも、最終的に那智の森に籠り、植物や生物を探求し続けた熊楠にとって、森は命そのもの。彼が100年先を見据えていたという指摘には大きな示唆を感じました。
旅の結びに
『熊野から読み解く記紀神話』を読み進めながら、自らの旅の記憶が重なり合い、「熊野は日本の原点だ」という思いがより強まりました。神話、歴史、伝承、自然──それらが渾然一体となって今も息づく場所。訪れた記憶と読書体験が共鳴し、忘れがたい一篇の物語となっています。
備忘します。
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アマテラスはお嬢様のエリート神のように一見思われるが、結局のところ、スサノオという乱暴者の対立者を甘やかしつつも、彼を包み、その理不尽を乗り越え、融和する力を有する女神であったということが、後々明らかになっていく。この男女心の対立というは、そしてそれぞれの役割の共同性と相互補完性は、日本神話の顕著な特徴といえる。イザナキとイザナミ、スサノオとクシナダ姫、猿田彦とアメノウズメなどの共同性と相互補完性などはその一例である。ページ32
この追放撃は、左脳が月の座から国掴みえと合格したことを意味しているのであろう。ページ35
古来より、人は苦しみを抱え、生き直しを求めて熊野の山中に分け行った。スサノオの追放の旅も、多く主の復活の旅も、神武天皇の東征の旅も、彼ら自身の試練の旅であったばかりでなく、国づくりのための苦難を跡付けるイニシエーション(通過儀礼)の旅でもあったわけである。ページ41
太陽を背ににして戦うという表現が、日の神、アマテラス大神の力を背に受けて戦うという意味である。天孫系の神々の粗神、アマテラスの文字通りの威光を借りて、再び兵を整え、進軍していく決意を改めて固めるのである。ここは極めて神話的な語り口となっていると言える。ページ50
神武天皇は数々の試練などを受けるが、それを上回る援助や導きを受けて、最初の地上の王、初代天皇たる道を切り開いていったのである。ページ56
また花の窟はイザナミを弔う日本で最初のお墓でもある。この神の魂を沈め、慰めるために花の窟は神社が存在する。神の魂を沈めるために、毎月2月と10月に日本書紀の記述の通り、季節の花を飾り、笛や鼓を演奏し、乙女が舞いを踊るのである。ページ69
2011年に起きた台風12号にて御船島は多大な被害を受けた。御船島は茶色い濁流に飲み込まれ、樹木が倒されて流された。御船島のあたりの水位は10メートルも上昇したという。水位が下がると、島は一変していた。緑豊かな木々は失われ、痛々しく茶色の地面がむき出した写真を目にした衝撃が忘れられない。ページ115
だから小説家の勝手な想像力でいわせて欲しい。美しい竜の如き那智の大滝は、誰の目にも明らかな、女性の神だ。彼女を目にする時、懐かしい我が家に戻ったような安心感とともに、皮膚という皮膚に力が蘇る。…大滝の持つ母なる輝きと包容力。女と言う絶対的な万物の源。そう、色なくして命を生み出す事は不可能なのである。ページ130
100年後を見つめていた人があの時代にもしいたとしたら、それは南方熊楠に他ならない。世界を駆け巡った後、熊野の那智の森に籠もり植物や土上の生物を探求し続けた熊楠にとって、森を刈られる事は命を刈られることに他ならなかった。ページ149
高千穂町では真っ先に高千穂神社を訪れた。2008年12月、周辺各地で夜通し演じられる夜神楽を見学するために同地に出向いた際、後藤俊介宮司お目にかかった。…高千穂神社を訪れた晩、同社で夜神楽を見た。岩戸こじ開けアマテラスを引き出したタジカラオの舞や、岩戸の前で踊ったアメノウズメの舞などはほんのさわりだが、イザナギとイザナミが酒を飲んで抱き合う前などに聴衆から笑が起こった。ページ174
現在の陵墓は江戸から明治期にその探索や治定が行われた、中には第26代の継体天皇陵(大阪市茨木市)のように明らかに時代が違うというケースもある。大阪府高槻市にある今城塚古墳がそれだとするのが定説だ。それでも宮内庁は変更しない。1カ所でも変えると収拾がつかなくなるからだろう。ページ177
天上から祖先神が降りくるというモチーフは、朝鮮半島や、ユーラシア大陸を駆け巡った騎馬民族など大陸系に共通する。それは神が天上にいて、その子孫が地上治めるという水直的な世界観を持つ。一方水平線から昇る太陽を拝む神が海からよりくるといった水平的な世界観はもっぱら海の民のものだろう。私は大和王権の先祖は海の民だと思う。日向の祖先は黒潮に乗って九州の地に上陸。地元の豪族と姻戚関係を結んで力をつけ、霧島連山や桜島の噴火による火山培地を通って、地味豊かで水も豊富な太平洋圏に達したのではないか。そう考えると神武天皇が日向の国から船出したという伝承とも辻褄が合う。ページ211
そこには波もなく穏やかな海が春の光に照らされ、どこまでも広がっていた。徐福がはるばる海を越え、たどり着いたといわれる波田須(熊野市)の海であった。ページ240
…徐福が日本にやってきた時、一緒に連れてこられた子供や職人たちは皆「秦」を名乗ったと聞かされていた。波田須が秦住だと聞いたときには、秦姓を名乗ったのは本当だったのだなと思った。ページ241
残念ながら原本当たることができなかったが、それによると徐福は蓬莱山を求めてまず九州と思われる場所に上陸し、蓬莱山がないことがわかると移動。次に熊野と思われる場所で同様に探索。最後に太平洋側を北上していく中で、ついに富士山を発見したという。ページ249
現在の京都の太秦は、秦氏の本拠地で発達されている地である。国宝の弥勒菩薩で有名な広隆寺は秦河勝が建立した秦氏の氏寺である。弥勒菩薩像の横には、秦河勝の夫婦像が並んでいる。ページ255
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