「神々の間に対立があっても、一方が抹殺されたり、価値を失うことはない。わが国の神話には異なる価値を認め合って共存しようとする文化が成り立った」(p.265)
 本書の核心は、まさにこの一節に尽きると言ってよいでしょう。以下、備忘を兼ねて印象に残った論点を五つに整理します。


1 スサノヲ──“荒ぶる神”から“災いを祓う神”へ
• 転機は八岐大蛇退治
高天原を追放され、出雲の地で思慮分別を得たスサノヲは、「世界最大の災い」から「災いを取り除く神」へと一変します(p.35)。
• 最古の和歌「八雲立つ…」
妻籠みの宮を築き、歌を詠み、オオクニヌシの祖神となった姿は、暴力を昇華した“創造”の象徴でした(p.37)。
2 オオクニヌシとスクナビコナ──巨人と小人の国づくり
• “種”を運ぶ小さき神
スクナビコナは穀物の種=生命力の化身(p.107)。オオクニヌシが各地の女神と結ばれ、肥沃な大地を生む旅のパートナーです。
• 対等な協働
スクナビコナが常世へ去った後は、オオモノヌシの助力で“未完”の国づくりを完成(p.118)。欠けた役割は必ず別の神が継承します。
3 アメノウズメ──笑いと露わな身体で“道を開く”女神
• 天岩戸と天孫降臨をつなぐ存在
岩戸を開き、ニニギ降臨の通路を開く──どちらも乳房と陰部をさらすという“奇異”な行為が決定打(pp.159-160)。
• インド神話との響き合い
リグ・ヴェーダの暁の女神ウシャスとの比較(p.225)は、古代日本が大陸文化を自在に取り込んでいた事実を示します。
4 “外来モチーフ”を抱え込む懐の深さ
 古事記の行間には、中国・インド・シベリア系の神話モチーフが随所に潜んでいました。純粋性より「面白ければ採用」の姿勢こそ、神話の生命力を保つ秘訣だと痛感。
5 対立と共存──敗者を抹殺しない物語構造
• アマテラス vs. スサノヲ
• アマテラス vs. オオクニヌシ
• 海幸彦 vs. 山幸彦(p.205)
 勝敗がついても、敗者は守護者・境界の番人・舞手など新たな“役割”を与えられ、存在も価値も消えません。この構造が「異質を排除し尽くさない」日本文化の基層になった、という著者の視点に深く納得しました。


まとめ──“共に生きる”発想は神話から
 日本の環境観、合意形成のスタイル、ポップカルチャーの「混ぜる文化」――その源流が神話にあると再認識できた一冊でした。古事記を読み慣れていても、新たな発見が山ほどあります。特に、
• スサノヲの“暴力⇄創造”の振れ幅
• オオクニヌシとスクナビコナの絶妙なペアリング
• ウズメの大胆な身体表現と笑いの力
 以上は、自分の読み落としを改めて照らし出してくれました。
「異なるものを活かし合う」――いまを生きる私たちにも欠かせない視点を、神々は語り継いでいたのだと感じます。
 備忘します。

>
…このときのスサノヲの行動は、相変わらず衝動的な乱暴だったが、世界と人間に大きな利益となる結果に結びついた。その意味でこの姫神の殺害を契機にして、それまでただ害することしかしなかった益する神に一変する、その変化の過程が諸についたと思われるわけだ。ページ30
このように天から追放されて鳥髪に降りた時点でスサノヲは、それまでしてきたように衝動に駆られて無分別な所業にふけることを全くやめ、まず慎重に思慮分別を働かせてから、それに基づいて行動することを始めた。…自身が最大の災いだった彼が大蛇を退治することで、逆に世界から災いを取り除く働きをした。つまり高原を追放されて地上に降りたスサノヲは、そこでそれまで無謀極まりない暴力神だったのがまさに一変して、優れた思慮分別を持つ戦いの神へと、鮮やかと言うほかない変化を遂げたわけだ。ページ35
八雲立つ・出雲八重垣・妻籠みに・八重垣作る・その八重垣を・という、和歌の嚆矢となった歌を読んで、そこに宮を作り、姫と住んで、大国主の先祖の神の父親になったとされている。ページ37
そうすると前にも述べたようにスサノヲは本来は、誓約による男神の父親だったことになる……したがってアマテラスではなくスサノヲが、…もともとの祖先神だと言うことになってしまう。これは前にも見たように日本神話の趣旨と、最も重要な点で矛盾することになると言わざるを得ない。ページ47
これらのいたずらをアマテラスが無理に言い繕って、咎めもせずに許してくれたことでスサノヲは姉神との間に、ひどいいたずらをして母を困らせる駄々っ子と、そのいたずらでどんな迷惑を受けても、叱らずにおおめに見てやろうとする母の関係を結ぶことができ、有頂天になったのだと思われる。いたずらをして母に許されると、駄々っ子は喜びはしても、それで悪事を辞める事は決してない。さらにひどいことをして、それも許してもらうことで、自分を甘やかしてくれる母の慈愛がどこまで大きいかを確かめようとする。ページ52
その後で彼はスクナビコと兄弟になり、一緒にまた国中を旅して回りながら、国づくりをした。そしてその途中でスクナビコが、突然常世の国に渡っていって、いなくなってしまうと、そこで不思議な仕方で出現した神を、三輪山の上にまつった。そしてこのオオモノヌシの助けで、その時にはまだ中途の状態にあった、国づくりを完成できたことになる。ページ105
スクナビコに穀物の種の化身の性質がある事はまた、古事記にこの神がカムムスヒの子で、この親神の手の指の間からこぼれ落ちて外界に来たと物語れれていることからも、はっきり確かめることができる。ページ107
スクナビコとした旅の締めくくりとして、この神に去られた後にオオクニヌシは見てきたようにオオモノヌシの目に見える助けを受けながら、スクナビコとしてきたことの結果の全てを、不動の地上に定めて国づくりを完成させた。ページ118
これまで繰り返し見てきたように日本の神話には、神々の間で激しい対立や葛藤があっても、それが解決される過程で対立した両者のどちらか一方の存在とか価値が否定されることにならないという大きな特徴がある。145
このようよこのようにまずアマテラスとオオクニヌシの間に、激しい衝突があったのに続いて、日本の神話には、アマテラスとオオクニヌシの間にも深刻な軋轢があったことが物が物語られている。ページ149
このようにしてアマテラスの息子のオシホミミではなくそのオシホミミの子でアマテラスの孫のホノニニギが瑞穂の国の支配者として、地上に降臨させられた事は、いろいろな点で重要な意味があると思われる。まずこのホノニニギは見てきたように、アマテラスの孫であると同時に、母はタカムスヒの娘なので、アマテラスの後見の役をし、一緒に八百万の神達を指揮している、この偉いタカムスヒの孫でもある。つまり高天原の司令者だった。男性と女性の最高神たち両方の孫であるので、天孫と呼ばれるのに、まさにこの上なくふさわしい神だったわけだ。ページ152
天孫を地上に降臨させるにあたっては、アマテラスを天の岩戸から招き出すために主要な尽力をしたのと、…とりわけその中のアマノウズメはどちらの場合にも、乳房と陰部を露呈して見せるという極めて特異的なやり方で、ふさがっていた通路を開くために、決定的な貢献を果たしたことになっているわけだ。ページ159
このようにどちらちこのようにどちらも同じ1軍の神たちによって達成され、しかもどちらの場合にもそのために女神が乳房と陰部を剥き出して見せるという、奇異と思われる振る舞いが、決定的な役割を果たしたとされていることから、天孫の降臨は天の岩戸からアマテラスの出現と、共通する所のある出来事だったことが、明らかだと考えられる。ページ160
オオクニヌシとアマテラスと同時に、この海幸彦と山幸彦の葛藤でも、敗者になって完全に屈服したとされている海幸彦は、その結果として存在も価値も抹殺されてはいない。海幸彦は命を助けられただけでなく、後は彼の子孫の隼人たちが、天皇の支配する国の南端に位置した居住地から大和に来て、朝廷の人々には犬の鳴き声のように聞こえた咆哮で、山幸彦の子孫の代々の天皇の守護を務め、また服従の印の隼人の舞を演じてみせることで、天皇の権威や国の隅にまで及んでいることを、はっきりと示す役を果たすことになったとされているわけだ。ページ205
このようにして成長するウガヤフキアエズは、その自分の義母で叔母でもあったタマヨリヒメを妻に娶った。そしてこの結婚から、初代の天皇の神武帝となった、…カムヤマトイワレビコ…その事は古事記に記されている。ページ213
日本神話で語られている、アマノウズメによる乳房と女性器の露出は、それだけを取り上げてみると、すこぶる奇異な出来事のように見える。だがリグベーダーの中で歌われている、ウシャスの見てきたような振る舞いは、特段に奇妙なことではない。ページ225
つまりオオクニヌシが、彼の雄大な男性器の象徴だった広矛で土地をついて回りながらした国造りは、見方を変えれば八千矛神である彼が、無数にあるのではないかと思えるほど、活力が決して枯渇することのない陽根を駆使して、各所で土地の女神を妻にして回った妻問いの旅でもあった。所々で彼の妻になった女神たちは、それぞれの場所の土地の神格化された存在だった。だから各所で女神を妻にして妊娠させることで、彼はその土地を肥沃にし、豊かな産物を生み出す国をに作り上げた。彼が広矛でも八千矛でもある陽根によって、女神である土地に施しまった精(スペルマ)は同時に彼がした国作りにあたってその協力が不可欠だったとされている、スクナビコがその化身だったスペルマでもあった。だからスクナビコ一緒に国中に穀物の栽培を広め、八千矛神として土地の女神と交合して回ることで彼は、自身の精でもありスクナビコが表していた種でもあったスペルマによって国土を豊かな国に作り上げることができたとされているのだと思われる。ページ258
神々の間に対立があっても、一方が抹殺されたり価値を失うことのない神話を持つことでわが国には、立場の違うものを悪として排斥し撲滅するよりも、異なる価値を認め合って共存しようとする文化が成り立ち、それによって人間と自然の共生も可能にされてきた。ページ265

\ 最新情報をチェック /

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA